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2008年度第5回政治社会勉強会
2008年度第5回政治社会勉強会
2008年10月4日(土曜日)
「「公共性」論」 稲葉振一郎を読んで:発表者 尾股和華
稲葉にとって公共性とは、社会システムと生活システムとの間に緊張関係が成立していることを議論していた。稲葉はこの観点からハーバマスを読んでいく。稲葉によれば、ハーバマスは、大衆社会の公共性の理念やリアリティの損失を問題化したとされる。その上で、近代とは、このような、公共性やリアリティへの違和感が存在したと議論している。このような状況に対して、稲葉は、後期近代はそのような違和感自体も欠如していく「動物化」の状況が存在したのではないのかと議論している。アレントもまた、「人間性」を問題化していると指摘され、そのようなものが流動的になり、人間が人間になれないということを問題化したと稲葉は指摘する。稲葉はアガンベンも取り上げて、彼のホモ・サケルの議論の現代的な意義として「幸せなホモ・サケル」が登場したということを指摘する。以上の議論を踏まえた上で、稲葉は人々の「動物化」している状況はそのような社会の管理状況にとっても不都合である(システム維持のために)ために問題ではないかと結論付けるのだ。
以上の稲葉の議論をふまえた上で、第一に社会システムを維持するための統治者は誰かという問題があるであろう。それは私人なのか、市民なのか、エリート的な人を想像しるようだが誰か?さらには、統治するものと統治されるものを分離すること自体に問題はあるのではないだろうか。稲葉によれば、統治者の選択肢自体は、統治される側と共有されておるとされ、両者の間には、循環があるように議論されるが、そのような対象性が成立しない場合もあるのではないか。特に、リスクの伴う意思決定を行う場合、そしてリスクが顕在化してしまった場合の責任問題をどのように考えるのか。そのような責任問題を共有できる「公共」というものも必要になってくるのではないだろうか?
質疑応答
Q.統治する側は統治をして、自治をする側は自治をすればよいという議論を稲葉は行うが、その違いは何か?統治するもの、と統治されるものという分断の中に自治のスペースはどのようにして入ってくるのか?
A. 原子力発電所の例をとれば、原発を作る側はインフラを作り、設計するという設定で、一般の人はその上で生きれば良いという前提として話すだろう。両者の間に情報の共有があるであろうが、インフラを作るという目的のために原発を作らないということを考えさせられるような土台をあるのか?
Q. 統治する側は重要なのではないか?それは所与のものではないか?では誰が統治しており、どんな統治のあり方がよいのかということを考えてみることは必要ではないか?
A. 確かに統治する者がいること自体は、確かに重要だろう。稲葉の論に戻るならば、統治されている側が、統治の関係にいることで、知りえない問題が出てくるだろう。それは何か問題が起こったときに初めて顕在化してわかるという状況になるだろう。そのような問題を知りえないまま問題が進んでいくこと自体が問題ではないかということを感じる。
Q. 二つの問題があるのではないか?一つは、常にあるリスクをどう考えるのかという問題がある。リスクはどこにでもあり、知りえないものであるだろう。もう一つは、リスクが顕在化した時にどう向き合うのかという問題ではないか。もしくは、リスクがあるのに顕在化しないという問題があるのではないだろうか。
Q. 稲葉の統治は二つの意味合いがあるのではないか?:一つは前者の環境管理型権力を用意するもの統治であり、後者は、そのようなそのような環境管理型権力にも人々が関わっていくことができるではないか。後者の意味での公共性という意味合いもあるのではないか。
Q. 環境管理型権力の意味合いも難しいのではないか。環境管理型権力が全体化している中で、その中で、私たちがどう行動できるのかということ自体も問題化することができるのではないだろうか。
Q. 稲葉の「動物化」の議論が、公共性の議論に対しての貢献とは何か?
A. 彼の貢献として考えられうるのは、ハーバマス的な方向に戻っていくのだが、いくつもの考え方があるのだが、意識を持っている人が関わっていくことが大事ではないのか。
Q. 稲葉の人々が参加する意味での統治の公共圏のもっている力というものを軽視しているのではないか?その社会にとって持っている意味でのパワーを考える必要もあるのではないか。
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