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2008年度第8回政治社会勉強会 12月13日

12月 18th, 2008

2008年度第8回政治社会勉強会12月13日土曜日

議事録

1.公共圏/公共性議論の系譜   降幡 博亮

 公共圏という言葉の概念的な根拠はハーバマスとアレントであるが、翻訳本として新たに出てくるのが1990年代であった。このような90年代の流れは東欧革命などの下からの革命、市民社会の社会運動というものに注目が集まったという点にあるのではないだろうか。

 その中で90年代に花田達郎がメディアの文脈でハーバマスを紹介し始めた。彼が公共性を公共圏として訳すことにより広まって言ったのが現在の公共圏の原初だろう。その後90年代後半から、そのような公共圏を使い日本の保守派の論客達によって使われ始めたのだ。彼らの主張は国家の「公」が「私」に侵食されてしまったという文脈で語られるようになるのだ。

 2000年代に入って、公共圏の議論が急に拡大しているのであった。斉藤純一の『公共性』(ネオナショナリズム批判を目的としている。)が出版される一方で、小渕政権によって出された「21世紀日本の構想」の中でも、自律された「個」による「公」というもの創出が主張されたのだ。佐々木毅、河合隼雄などがそれに携わったといわれている。これの後者の流れは確実に政策的課題として、「公共性」というものが議論されるようになってきたのである。その流れの上で『社会学評論』は日本における「公」の創出の可能性という議論を始めているのだ。中心的人物としては、橋爪大三郎などが挙げられるだろう。一方では市民社会論的な排除された複数性を公に取り込むのかという議論がある一方で、統治としての公共性の議論が出てきたのがこの2000年代の議論と考えられるであろう。そしてこの統治の面を裏付けているのが、かつてあった日本人論の日本の特殊性から公を導き出すということに結論が向かっている。

 2001年の『思想』の特集は前者の市民社会論的流れが特集を組み複数性の政治や親密圏などの議論を行った。その一方で政策としての議論も今田高俊などによって行われた。
 
 2002年になると市民社会論の流れから対抗的公共圏の議論などが出された

 2004年では『NIRA』から政策課題として公共圏の重要性を議論している。

 2005年では『現代思想』が再び市民社会の流れから、ネオリベラリズムに対する公共圏の議論がなされた。

 2006年になると『学術の動向』では、また政策の側からの公共圏の重要性が、日本の統治をどのようにしていくのかという議論がなされたというのが挙げられる。
以上をまとめると、日本の中の公共性・公共圏の議論というものは、公共圏という議論をアリーナにして、日本のローカルコンテクストの政治経済の議論が行われていると考えられるのではないだろうか。それは市民社会側で公共圏の議論を使い自分達の権利を擁護していこうという立場と政策として公を作っていくのかという二つの立場の議論として理解してよいだろう。

2.公共圏の議論を巡る動向  石綿 寛 (レジュメから)

公共圏の議論の動向

NACSISおよび日外雑誌検索にみる公共圏の議論の動向

本

冊数 1990-1995 1995-1999 2000-2005 2006-2008
合計 0     4     21     15

 内容分類 メディア 哲学/思想 政策 その他
1996-1999 2 3      0 0
2000-2005 4 7      4 7
2006-2008 1 9      4 4
     
 

論文

論文数 1990-1995 1996-1999 2000-2005 2006-2008
合計 10      23       202      78      

 内容分類 メディア 哲学/思想 政策 その他
1990-1995 5 5     0 0
1996-1999 5 12     5 5
2000-2005 34 120     73 60
2006-2008 8 52     25 24

公共圏論文から見る主要な議論の場

主要人物: 船橋晴俊、鬼丸正明、平地秀哉、木原活信、遠藤薫、酒井隆史、木原利秋、干川剛史、三島憲一、本秀紀、渋谷望、吉田純、花田達郎

主要雑誌: 法政研究(74:3 2007)、Asia Japan Journal (3 2007)、法の科学(37 2006)、現代思想(33:5 2005; 30:6 2002; 28:3 2000)、社会学年報(34 2005; 32 2003)、立命館国際地域研究(22 2004.3)、社会思想史研究(28 2004)、市民的公共圏形成の可能性(森英樹 2003)、思想(925 2001; 907 2000)、

分類別公共圏論文の議論の動向

*********************************************************
津田正夫「<市民メディア>による新たな公共圏の可能性~「市民メディア全国交流集会06 in 横浜」によせて~」『メディアと文化』3 2007年3月 pp. 129-139.

メディアに分類

要旨:近年高まる市民メディアの概観しその意義を議論した上で、2006年で横浜で開かれたシンポジウムを総括する。主張としては、メディアとは人々の意見を排出する、重要なツールであり、その形態は開かれたものであるべきとする。それは、新たな参加者である市民メディアにもオープンな制度であるべきであり、また既得権益の事業者やNHKもまたそのような中立で開かれた放送を心掛けなければならない。

公共圏の理解:開かれた情報を伝達する手段、及びその場(開かれた意見、参加者およびそれを通じた意見の伝達)

クロスレファレンス:花田達郎 ハーバマス

****************************************************************************

土佐昌樹「公共圏の概念からみるアジア文化」『Asia Japan Journal』2 2006年 pp. 77-91.

哲学・思想に分類

要旨:ハーバマス公共圏の概念を参照にしつつ、彼の公共圏の文化的基盤を議論し、それがアジアという場でも異なった形態をとりつつも存在することを議論する。西洋の公共圏の議論が自由で身分の差異から区別されたコミュニケーションの場を想定していることに対して、言論弾圧の進むミャンマーや弾圧されていた韓国、および従来は無視されてきた消費文化の中にも公共圏の可能性があることを議論する。

公共圏の理解:オープンで自由なコミュニケーションの空間、それを通じた、社会の変化についても言及

クロスレファレンス:ハーバマス

************************************************************************

江口厚仁「公共性論の現在-本分科会の企画趣旨について」『法政研究』74:3 2007年12月 pp. 593-608.

哲学・思想と政策に分類

要旨:現在増加している公共性論、公共圏論を背景にその概念整理を試みるとともに、現在の状況に合わせた、公共性論・公共圏論の解釈の必要性、そしてそこにおける法の役割を明確にすることを試みる。江口によれば現在、公共圏として議論されるものは一つの危機に陥っている、そこでは、従来の公/私という分割自体が説得力を帯びないものになってきている(e.g. 私的サークルのコミュニケーションと電車の私的行為)。そのような中でいかにして従来の公的/私的とされる場、議論自体を公的なもの(共)に包括、判別していくかの可能性について議論している。そしてそのような新たな公的なものに根拠を与えるものこそ法であると江口はしている。

公共圏の理解:開かれたコミュニケーションおよび議論の場、そしてそれを保障する仕組み

クロスレファレンス:斉藤純一、大沢真幸、アレント、フレイザー、『公共哲学』(東京大学出版)、思想(907、924、925、983号)、現代思想(30:5、33:5、)、『<公私>の再構成』(日本法哲学会編)、『早稲田政治経済学雑誌』(357 2004年)、『現代における私法・公法の<協働>』 

******************************************************************

以上の三つの論文から言えることは、公共圏が「開かれたコミュニケーションの場」としての共通認識があることだ。この意味を考えていくことが重要なのではないだろうか。

3.議論

スペースとして公共圏・公共性の議論とクオリティの公共圏・公共性の話を分ける必要がであろう。クオリティとしての公共圏がどうなっているのかを整理しない限り、相手の議論に飲まれてしまうのではないだろうか。

議論を深めていく際に、上記してある議論であった、市民社会論として公共圏論と政策として議論する公共圏論の議論と前提となっている部分を批判することが重要ではないだろうか。

公共圏を巡る議論を通じて感じることは、公共圏を巡る議論というよりは、その背景にある、アカデミックの立場のぶつかる点としてこの議論があることを感じた。

人が好きなように公共圏の議論を使っているのを感じる。

自分がフォーカスしたいポイントが2000年以降の議論で、「個」が作られていく「公」、バラバラになった個人がどうやって参加していけるのか、ということに興味を持った。これからどう進めていくのか点に関して、市民社会論的に公共圏を使う人と政策的に公共圏を使う人の二つの立場を明確にすることで、自分が理想とする公共圏が見えてくるのではないだろうか。
なぜ参加に興味を持ったのか?
自分も自分の周りの人達もあまり他人のために何か良い事をしようという意識があまりないことを感じた。俺がよければ他人はどうでもよいということを感じている一方で、そうであるべきでないとも感じるのだ。
参加を強制するメカニズムは社会の中にセットインされているのではないだろうか。その事実を認識することがまず、重要ではないだろうか。

4.次回やること

2000年以降の議論として市民社会系公共圏の議論と政策系の公共圏の議論をおさえてみる。その際リサーチのポイント、1.M.A. 2.公共圏の定義 3.アクター 4.社会認識からどんな議論をしているのかをまとめる。
 具体的なものとしては「公共圏」を述べる雑誌の特集を立て読みする。(降幡:『法政研究』(74:3 2007),社会思想史研究(28 2004);石綿:『法の科学』(37 2006)『思想』(925 2001))

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2008年度第6回政治社会勉強会 part 2

11月 3rd, 2008

2008年度第6回政治社会勉強会 part 2
2008年11月1日(土曜日)

「公共圏」への関わり方の考察:降幡博亮

 稲葉の「公共性」の議論を基に、彼の考え方を生かした上で、日本の公共圏にあり方について試考を加えてみたいと思う。

 稲葉にとって公共性とは「「社会システム」と「生活世界」の分離が自覚された上での、その克服―現実的な克服というよりは、克服という課題が理念として確立されること、その上でその理念が単なる空虚なお題目にとどまらず、現実に人々の生を導くものになっていること…」もしくは、その状況、様態を示す言葉として使用されていた。そして公共圏とは「この「公共性」の理念、感覚が共有されている人々からなる社会領域・・・」もしくは人工的に環境がアレンジされたメディア空間。公共性についてのコミュニケーションの領域として定義されていた。つまり、人々から自律していく社会システムと、人々が生活している生活世界の間の差異・問題を考えそして埋める空間として公共圏というものが機能すると考えられるのである。

 この議論を参考にした上で、稲葉は、そのような公共圏を確立するために、いかにして、公共な事柄に消極的な人々が積極的に関わることができるようになるのかという問題を提示していた。

 しかし、私は、稲葉の言うような公共性を意識して活動する「積極的な」人々と、関与することを忌避する「消極的な」人々、という2分法はとらない。たった一人で生きている人(他者への関与を忌避しながらも生きていけるひと)はいないし、複数名で行う興味本位の活動が公共性(人々の生き方を導くもの)に影響を与えることもあるからだ(例、「おたく」ムーブメントの始まり)。

 ただ、その一方で公共圏への関与の仕方としての「積極的」「消極的」というのはありうるのではないか。「公共性」を意識して積極的に発言・行為を行う「公共圏への積極的関与」と「公共性」を意識しないものの他者も見る/聞くことができる形で発言・行為を行う「消極的関与」というあり方の両方があるはずだ。そのような前提を基に日本社会における社会システムへの積極的、そして消極的な人々の関与、公共圏というものを考えてみたい。

 1945年から1970年代は日本の高度成長システムの成長期と考えられるが、そこには確かに人々が積極的な関与をしており、それは労働運動や学生運動として現れてきた。そこでは、システム経営における権力を闘争するという役目をもっていた。その一方で人々のシステムに対する消極的な関与として戦後復興という人々の意識があったであろう。そのような意識は問題こそあれ戦後の経済は発展は正しいという社会システムへの正当性を与える役目をになったはずだ。

 1970年から95年は、高度成長システムの安定期と考えられるが、このような安定したシステムに対して人々の積極的関与は、消費者運動や個別マイノリティ運動の形態をとり、安定したシステムに対して批判や修正を要求するインパクトを持った。その一方で消極的な人々の関わりは、安定した経済成長の恩恵を受けた人々の消費行動として現れてきたであろう。そのような消費行動は積極的にシステムに対する満足感を表現しシステムの維持に正当性を与えたのであった。

 そして1995年から現在至るまでのピリオドはシステムの停滞期と考えられるだろう。ここでの積極的な人々のシステムへのかかわりは、環境運動やマイノリティ間の連帯運動などの形式をとり問題毎に人々がシステムへの意義申し立てをし、システム自体を積極的に再構築する役目を担い始めてきていると考えられる。消極的な人々のシステムへのかかわりにおいてもエコライフやオタクムーブメントなどシステム内部において興味ベース関係性を形成することにおいて、システム自体の新たな使用というシステム自体の維持に貢献していると考えられるであろう。

 以上の考察から、今も昔も人々は積極的にも消極的にも公共圏というものを形成しそして社会システムにインパクトを与え続けているということがいえるのではないだろうか。

参考文献
東浩紀『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』講談社現代新書, 2001.
稲葉振一郎『「公共性」論』NTT出版, 2008.
大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書, 2008.
北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』NHKブックス, 2005.
宮台真司『まぼろしの郊外――成熟社会を生きる若者たちの行方』朝日新聞, 1997.

質疑応答

Q.議論の空間性を考えた時に国民国家というものを前提にシステム対人々という図式を構成しているのではないだろうか。それはシステム内部の企業や家庭、人々内部の多様な動きを還元する役割を持っているのではないだろうか?

Q.システム自体が日本の高度経済システムということが前提になっているように感じられるが、企業のダイナミクスを見た時に安定期、成長期、停滞期という理解とは別に一貫して成長を続けているのではないだろうか。そしてその成長の論理自体も一貫してシステムというもので括られるわけではなく、その内部の論理自体もダイナミックに変化しているのではないだろうか? そう考えるならば、システムへの人々の積極的・消極的関与とされる、内容、アクター自体も再考されるはずではないだろうか?

Q.様々な疑問があるが、第一に公共圏の範囲はどこまでと想定できるのか、それは全体が公共圏なのか、いくつか部分が公共圏なのか、それとも多様ないくつかの部分が公共圏なのか?

A. The Public Sphereという考え方、the Publicという考え、そしてPublic Spheresという考え自体がそれぞれの公共圏の範囲の議論に対応していると考えられる。今回はそれぞれ三つの要素を組み合わせた感じでプレゼンをした。

Q.公共圏のあり方としてシステムへの関与を意味した場合、それは主体やコミュニケーションのあり方によっても変わってくるのではないか?

A. 確かに主体やコミュニケーションなどの関わりのあり方によってそれは違ってくるかもしれないが、その一方でそのような関わりのあり方自体を確実に区別することも困難であろう。

Q. やはり何をみたいために公共圏の議論をみるのかを明確にする必要があるのではないか?

議論

今まで考えてきた公共圏の議論をどのように活かして、発展させていけるだろうか?

1. 公共圏義議論の重要性はどこにあるのか?:1.社会を解釈する場でありうる、自分を見つめなおす場でもありうる、そして他者と交わるまでもありうる点、2.社会の中で変化を根源的な起こす場である点 3.自分が生きている場を自分で改めて理解することができる場である点 4.近代の文脈で自分がどう生きるのかを考えられる場、そしてそれを通して他者と社会をどう作っていけるのかを解釈を考える場、その結果として社会のあり方を変化させる場→公共圏の重要さ:自己解釈の場、他者解釈の場、社会解釈の場、そしてそれを通じて社会を変化させる可能性のある場  (問題意識)

2. 自己解釈の場、他者解釈の場、社会解釈の場(そこにおける社会変化は)どこで見ることができるのか?→知識生産の場(すべての要素は知識を生み出すことに関係しておりそのことを通して社会変化を導くという点から)  (Topic)

3. ではそのような自己解釈、他者解釈、社会解釈を行う場として理解される知識、「公共圏」(公共性)がどのように、知識生産として作られ、使われているのか?  →これを通して現在における、自己解釈、他者解釈、社会解釈の意味を明確にする (事例)

次回の課題:日本の文脈で公共圏・公共性という議論は、いつから語られ、誰に語られ、どのように使われているのか?

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2008年度第6回政治社会勉強会  part 1

11月 3rd, 2008

2008年度第6回勉強会 part 1
2008年度11月1日(土曜日)

日本における市民的公共圏の議論:発表者 中野瑞紀

 日本における公共圏がどのように議論されているのかを知るために、長崎励朗「現代日本と幻影の公共圏」『京都大学生涯教育学・図書館情報学研究』2008年3月、増田和也ほか「現代の公共圏とコミュニケーションをめぐる-考察-「菜の花プロジェクトを例に-」『同志社政策科学研究』2007年8月、江口厚仁ほか「【シンポジウム】市民的公共性/公共圏のゆくえ」『九州大学法政研究』2007年12月をもとに議論をまとめてみた。

 長崎他は現在の「市民的公共圏」というものが有効性を失っていることを、「理性的討議」の不可能性、「開放性」「公益性」「平等性」という二つの公共圏の条件が成立していないことを論拠に議論している。前者の理性的な討議が現実に実行された場合、時間的な制約のもとにおける合意の困難、意見の言い合いに終ってしまう危険性が絶えず潜んでいる。後者の公共圏の三つの条件に際しても、開放性に対して、自発的に参加しない人々の存在や、公益性・平等性に対しても格差や根源的な平等性の確立は困難であると議論される。長崎は以上のような結論から、コミュニケーションの増加よりもコミュニケーションを行うことはどんなことであるのかという問いこそが問われるべきであると結論づけていた。

 増田他は、ハーバマスの議論に基づき、公共圏の前提を対象性、公開性、柔軟性と定義し、多様なアクターによるコミュニケーションに基づく社会の構造転換こそが公共圏の役割であるとしている。その上で彼らが主張する「菜の花プロジェクト」は公共圏の可能性があるということを議論していた。

 江口他の【シンポジウム】では、公共圏の議論が前提にしていた、公的領域、私的領域の区別、公私の区別の難しさを論拠に現在の市民的公共性、そして公共圏を語ることの難しさについて議論していた。その上で、そのような公共圏の困難を乗り越えるために、他者とのコミュニケーションのあり方そして、他者へのコミットメントのあり方を改めて問われなければならないということが主張されていたのだ。

質疑応答

Q.どの論文も問題意識がなにのではないか?これらの議論は公共圏のための公共圏を議論しているのではないだろうか?

A.確かに自分達のみたいもの、言いたいものを言うために公共圏が使われているではないだろうか?

Q. 稲葉の議論を読んでいても思ったことだが、どの視点から公共圏を考えるのかということが重要ではないだろうか?公共圏を俯瞰してみる方法と、公共圏を使って議論を組み立てることはまた別種のことであろう。

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2008年度第5回政治社会勉強会

11月 2nd, 2008

2008年度第5回政治社会勉強会
2008年10月4日(土曜日)

「「公共性」論」 稲葉振一郎を読んで:発表者 尾股和華

 稲葉にとって公共性とは、社会システムと生活システムとの間に緊張関係が成立していることを議論していた。稲葉はこの観点からハーバマスを読んでいく。稲葉によれば、ハーバマスは、大衆社会の公共性の理念やリアリティの損失を問題化したとされる。その上で、近代とは、このような、公共性やリアリティへの違和感が存在したと議論している。このような状況に対して、稲葉は、後期近代はそのような違和感自体も欠如していく「動物化」の状況が存在したのではないのかと議論している。アレントもまた、「人間性」を問題化していると指摘され、そのようなものが流動的になり、人間が人間になれないということを問題化したと稲葉は指摘する。稲葉はアガンベンも取り上げて、彼のホモ・サケルの議論の現代的な意義として「幸せなホモ・サケル」が登場したということを指摘する。以上の議論を踏まえた上で、稲葉は人々の「動物化」している状況はそのような社会の管理状況にとっても不都合である(システム維持のために)ために問題ではないかと結論付けるのだ。

 以上の稲葉の議論をふまえた上で、第一に社会システムを維持するための統治者は誰かという問題があるであろう。それは私人なのか、市民なのか、エリート的な人を想像しるようだが誰か?さらには、統治するものと統治されるものを分離すること自体に問題はあるのではないだろうか。稲葉によれば、統治者の選択肢自体は、統治される側と共有されておるとされ、両者の間には、循環があるように議論されるが、そのような対象性が成立しない場合もあるのではないか。特に、リスクの伴う意思決定を行う場合、そしてリスクが顕在化してしまった場合の責任問題をどのように考えるのか。そのような責任問題を共有できる「公共」というものも必要になってくるのではないだろうか?

質疑応答

Q.統治する側は統治をして、自治をする側は自治をすればよいという議論を稲葉は行うが、その違いは何か?統治するもの、と統治されるものという分断の中に自治のスペースはどのようにして入ってくるのか?

A. 原子力発電所の例をとれば、原発を作る側はインフラを作り、設計するという設定で、一般の人はその上で生きれば良いという前提として話すだろう。両者の間に情報の共有があるであろうが、インフラを作るという目的のために原発を作らないということを考えさせられるような土台をあるのか?

Q. 統治する側は重要なのではないか?それは所与のものではないか?では誰が統治しており、どんな統治のあり方がよいのかということを考えてみることは必要ではないか?

A. 確かに統治する者がいること自体は、確かに重要だろう。稲葉の論に戻るならば、統治されている側が、統治の関係にいることで、知りえない問題が出てくるだろう。それは何か問題が起こったときに初めて顕在化してわかるという状況になるだろう。そのような問題を知りえないまま問題が進んでいくこと自体が問題ではないかということを感じる。

Q. 二つの問題があるのではないか?一つは、常にあるリスクをどう考えるのかという問題がある。リスクはどこにでもあり、知りえないものであるだろう。もう一つは、リスクが顕在化した時にどう向き合うのかという問題ではないか。もしくは、リスクがあるのに顕在化しないという問題があるのではないだろうか。

Q. 稲葉の統治は二つの意味合いがあるのではないか?:一つは前者の環境管理型権力を用意するもの統治であり、後者は、そのようなそのような環境管理型権力にも人々が関わっていくことができるではないか。後者の意味での公共性という意味合いもあるのではないか。

Q. 環境管理型権力の意味合いも難しいのではないか。環境管理型権力が全体化している中で、その中で、私たちがどう行動できるのかということ自体も問題化することができるのではないだろうか。

Q. 稲葉の「動物化」の議論が、公共性の議論に対しての貢献とは何か?

A. 彼の貢献として考えられうるのは、ハーバマス的な方向に戻っていくのだが、いくつもの考え方があるのだが、意識を持っている人が関わっていくことが大事ではないのか。

Q. 稲葉の人々が参加する意味での統治の公共圏のもっている力というものを軽視しているのではないか?その社会にとって持っている意味でのパワーを考える必要もあるのではないか。

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2008年第4回政治社会勉強会

10月 16th, 2008

2008年度第4回政治社会勉強会
2008年9月5日(土曜日)

「「公共性」論」 稲葉振一郎 を読む:発表者 降幡博亮

 稲葉振一郎の「「公共性」論」を読んで、自分の理解を話した上で、議論できればと思う。この本は、従来型の公共圏論をおさらいした上で、リベラリズムの立場からまとめていることにある。確かに多様な議論をおさえた上であるが、複雑な本でもある。多元化、多様化する社会の消費社会以降の思想を押さえた上で、公共性、公共圏の議論を発展させているだろう。

 個人的な意見としては、現在多様な意味で公共性、公共圏という言葉が使われているが、その内実が果たして現在不明になってきているということがいえるのではないだろうか。

 それに対して、稲葉この言葉自体に対して、意味づけを定義している。公共性とは社会システム(経済などの効率性の領域)と我々が現に生きている社会が分離していることを自覚した上で、その分離に対して意識をして克服していこうという状態、様態を示す言葉であるとしているのだ。そして、公共圏とは、この「公共性」の理念、感覚が共有されている人々からなる社会領域であるとしている。その上で、ハーバマスやアレント、もしくはその他の政治的思想というものに彼なりの解釈を加えていくのだ。

 彼によれば、公共圏の大家であるハーバマスとは、「公共性の構造転換」という19世紀に存在した「市民的公共性」というものを通じて、近代以降、資本主義の交流とともに、かつてあった、公共的空間自体が伸縮してしまったという議論をしているのだ。しかし、19世紀は本当に「市民的公共性」が実現されていたのかということを稲葉は問題化している。もちろんそのような価値を体現しているのは、限られたエリート市民であるだろう。それが没落したのは、市場経済の広がりという要素であるというよりも、そのような市場経済の広がりに対して、エリートとして市民達が従来の価値を保持することに幻滅したことに始まるのではないかと議論している。

 アレントの公共圏もまた近代の資本主義の流れとともに、公共の領域が拡大され、公共の条件も拡大され、その結果、従来の公共の条件そのものが「固定的」なものから流動化し始め、没落していったと議論しているのだ。著者もこの問題意識を共有しつつも、近代大衆社会、資本主義は人工的に作られたものにも限らず、それは可変的であると議論している。そして、現在でも誰でも他の人々が何かをやっているという意識レベルの共有が成立しており、コミュニケーション・メディアを通して人が意見を発し、現れる可能性も出てくるということも否定できない(もちろん、その道具的側面としてメディアが機能している面はあるだろう)。

 そのようなハーバマス、アレントを批判した上で、公共圏、公共性というものを再構築しようと試みている。すなわち、現在においても新たな作られうる公共圏が可能ではないかという議論を達成する。なおかつ、さまざまな複数の「公共圏」を形成しているのではないかということも議論している。これは、フレイザーの立場に近いのではないか。
その上で稲葉は、現在社会における公共圏の状況について議論していく。ひとつは、「公共圏」をとりまく状況として「環境管理型権力」であると議論している。すなわち、人間そのものを行動させるのではなく、人間の環境を改変していくことによってある人を公共圏から遠ざけるように機能するものとして議論する。もちろん、稲葉が言うようにこのような「環境管理型権力」が人に対して幸福にする可能性があるであろう。その際にこのような権力はどう批判されうるのか?稲葉の回答は、そのような権力を操る主体自体も、そのような管理型権力は、自己の再生産を測る上で不都合ではないか。すなわち、環境管理型は環境を管理する人にとっても不都合なのである。それは、彼のホモ・サケルの議論にも結びついていく。ホモ・サケルとは、国家の下に置かれながら、国家の保護からはじき出された状態の人々であり、暴力に追い回される状況であるとアガンベンは議論しているだろう。しかし、稲葉は、これが環境管理型権力と結びつくならば、はじき出されていても幸福な人間は存在しうるのではないかという議論している。そして、もう一つ、稲葉が議論していることは、「マルチチュード」の議論をしている。すなわち、ネグリなどがいうのは、現在のグローバル資本の侵略に対して、グローバルな連帯、マルチチュードを形成してそれを転覆していくという議論をしていくが、果たしてそのような転覆が正しいことなのかという議論も行っていく。そして、そのような、抑圧された「少数派」が容易に保守派に結びつくということも議論していく。

 そのような現状を踏まえた上で、稲葉は、公共圏のコミットメントの重要性を再定義している。人工環境を組織、再生産するためには、人工環境に対して開放的である必要から公共圏の可能性を議論している。そして、そのための、積極的なの環境維持のための管理者の重要性の働きかけを重要視し、とそれ以外の立場の参加者の可能性も認めるということを強調している。そのためには、議論の場として左翼のような人のアドヴォカシーは重要であるとしているのだ。

 以上の理解を踏まえた上で、私が抱く感想としては、稲葉は、あえて公共性に関わらない人の可能性を強く肯定しているのだが、果たして、システムの再生産のためにそのような人を再び公共性にコミットメントさせることはできるのだろうか?その上で公共性の意識とそれを感じられる人の間のエリート主義的な社会関係を形成していくのではないだろうか。その一方で、主体性を絶対化するような、理想論を述べていない所は重要ではないだろうか。

質疑応答

Q.リベラリストのポジションから稲葉はこの本を書いたと議論したが、リベラリストとは何であろうか?その逆側にいる人達は何を言っているのか?

A.人間は自由であり、そのような自由状況を阻害するものを除去していくべきだという意見だろう。しかし、それで放置すれば良いのかといった時に、様々な議論の幅があるであろう。対立する立場としては、コミュニタリアンであるだろう。個人の自由だけではなく、共同体の価値というものを重視し、その中で個人の自由を達成していくものであると考えられる。両者の敵対的な立場としては、全体主義であろう。

Q. 環境管理型権力の認識が分裂しているのではないか。フーコー的な権力と組織を動かす権力という二つを混乱的に使い分けているのではないか?

Q. 本質的な社会認識として、公共圏の条件として道具的合理性とコミュニケーション合理性の二つの領域というものを稲葉は、本質的に規定しているが、それは、歴史性、時間性を無視した議論ではないか。それが、「逞しきリベラリズム」が自発的に、公共圏を形成する人間が本質的に想定されているのではないか。

A. 歴史の教訓を学んだ上での理解、社会の変容というもの自体は生まれてくるだろう。

Q. さらには、本質的な社会認識は、公共圏の可能性を単純化する可能性があるのではないか?

Q. 稲葉の認識自体がテーマパークの「幸せなホモ・サケル」もしく強制収容所の「不幸なホモ・サケル」という、バラバラな人間関係が所与として提示されている、そしてその上での社会のシステム・マネージメントを提示しているが、それは社会の多様な意見を逆に単一化しているのではないか。前提として「ホモ・サケル」は単一化しているイメージで捉えている限り、社会の中での多様な意見を含んだマネージメントを達成することはできないではないだろうか?「公共性」と「公共圏」を代替可能なものとして位置づけ、変化の場というよりも、変化の条件として描き出すその描き方自体が、社会を単一化して認識しているということの表れではないだろうか?

Q. 環境管理型権力を使うのは誰か?

Q. 環境管理型権力を知ってしまった時に、皆は不幸になるであろう。アマゾンのお勧め機能に従っている限り、それは自分の選択でありたいと思うし、それが、他人に選択させられていると感じたら確実に不幸になるではないか。現在の政治の世界は、複雑だ、それを知ろうとしても難しい、知らないでも生きていけるだろう。そのような知らない人と知れる人との連関はどのように生かせるであろうか?

A. ある人の行動が意味を持たないことはないだろう。いろんな決定が重なって、政策はできるであろう。その意味で一人一人の行動は意味があるのだ。さらに、環境管理型権力は完璧ではないだろう。それには不全もあり、実際に様々な意見が社会から出てきてるはずだ。

Q. 最初に感じたのは、この本は誰に向けて書かれているのかということを感じた?この本を読まない人、読もうとしない人達が存在しており、それは、動物化している人達であろう。その人達を考慮しているのか?さらに、環境管理型権力の中に人はいると言われているが、実際そのような環境管理型権力は多様であろう。その中で、我々は生きており、その上で、個人の多様性というものを考える必要があるのではないか。

Q. 個人の属するネットワークは多元であり、そのネットワーク毎には多元な社会化があるはずだ、しかし、問題なのはそのような多元なネットワーク自体が単一なものして表象されることが問題ではないだろうか。

Q. 例えばホームレスとして支援される人と支援されない人の関係も、そのように単一な関係になりがちではないだろうか?

A. まずは、支援される人も支援されない人の間に共同参画的な取り組みが必要になってくるのではないだろうか。

Q. 現場とその現場とは違う距離があるはずであろう。だからこそ、マクロな問題を考える可能性もあるのではないだろうか。

A. それと同様に現場レベルでも、多様なネットワークとしての関わり方があるのではないだろうか。

Q. すべての人が、披支援者であるという状況があり支援者がいるという状況もある。その関係性は変えられないか?

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