11月14日@多摩キャンパス
11月 15th, 2008『日本のアジアにおける産業化』
(1)Hatch and Yamamura (1996)の議論のまとめ
1-1、日本によるアジア地域生産ネットワークの構築
1-2、開発主義(developmentalism)
1-3、日本国内における開発主義
1-4、開発主義のアジアへの拡大
1-5、日本の多国籍企業(MNCs)による技術力の保持と技術移転のコントロール
(2)日本型ビジネスモデルの限界
(3)おわりに
発表:金子
*IRは毎月第二金曜PM3:00~@多摩キャンパスで活動しています。
10月10日(金)@多摩キャンパス
11月 3rd, 2008『現実主義と批判理論』-ポスト日米安保へ向けて-
1、序章
2、日本の外交・安全保障
3、日米安保体制と現実主義
4、批判理論
5、総括
発表:古川
尚、今年度は引き続き月一回、
毎月第二金曜PM3:00~@多摩キャンパスでの活動になることが決められた。
参加希望の方は連絡を頂ければ幸いです。
2008年度第6回政治社会勉強会 part 2
11月 3rd, 20082008年度第6回政治社会勉強会 part 2
2008年11月1日(土曜日)
「公共圏」への関わり方の考察:降幡博亮
稲葉の「公共性」の議論を基に、彼の考え方を生かした上で、日本の公共圏にあり方について試考を加えてみたいと思う。
稲葉にとって公共性とは「「社会システム」と「生活世界」の分離が自覚された上での、その克服―現実的な克服というよりは、克服という課題が理念として確立されること、その上でその理念が単なる空虚なお題目にとどまらず、現実に人々の生を導くものになっていること…」もしくは、その状況、様態を示す言葉として使用されていた。そして公共圏とは「この「公共性」の理念、感覚が共有されている人々からなる社会領域・・・」もしくは人工的に環境がアレンジされたメディア空間。公共性についてのコミュニケーションの領域として定義されていた。つまり、人々から自律していく社会システムと、人々が生活している生活世界の間の差異・問題を考えそして埋める空間として公共圏というものが機能すると考えられるのである。
この議論を参考にした上で、稲葉は、そのような公共圏を確立するために、いかにして、公共な事柄に消極的な人々が積極的に関わることができるようになるのかという問題を提示していた。
しかし、私は、稲葉の言うような公共性を意識して活動する「積極的な」人々と、関与することを忌避する「消極的な」人々、という2分法はとらない。たった一人で生きている人(他者への関与を忌避しながらも生きていけるひと)はいないし、複数名で行う興味本位の活動が公共性(人々の生き方を導くもの)に影響を与えることもあるからだ(例、「おたく」ムーブメントの始まり)。
ただ、その一方で公共圏への関与の仕方としての「積極的」「消極的」というのはありうるのではないか。「公共性」を意識して積極的に発言・行為を行う「公共圏への積極的関与」と「公共性」を意識しないものの他者も見る/聞くことができる形で発言・行為を行う「消極的関与」というあり方の両方があるはずだ。そのような前提を基に日本社会における社会システムへの積極的、そして消極的な人々の関与、公共圏というものを考えてみたい。
1945年から1970年代は日本の高度成長システムの成長期と考えられるが、そこには確かに人々が積極的な関与をしており、それは労働運動や学生運動として現れてきた。そこでは、システム経営における権力を闘争するという役目をもっていた。その一方で人々のシステムに対する消極的な関与として戦後復興という人々の意識があったであろう。そのような意識は問題こそあれ戦後の経済は発展は正しいという社会システムへの正当性を与える役目をになったはずだ。
1970年から95年は、高度成長システムの安定期と考えられるが、このような安定したシステムに対して人々の積極的関与は、消費者運動や個別マイノリティ運動の形態をとり、安定したシステムに対して批判や修正を要求するインパクトを持った。その一方で消極的な人々の関わりは、安定した経済成長の恩恵を受けた人々の消費行動として現れてきたであろう。そのような消費行動は積極的にシステムに対する満足感を表現しシステムの維持に正当性を与えたのであった。
そして1995年から現在至るまでのピリオドはシステムの停滞期と考えられるだろう。ここでの積極的な人々のシステムへのかかわりは、環境運動やマイノリティ間の連帯運動などの形式をとり問題毎に人々がシステムへの意義申し立てをし、システム自体を積極的に再構築する役目を担い始めてきていると考えられる。消極的な人々のシステムへのかかわりにおいてもエコライフやオタクムーブメントなどシステム内部において興味ベース関係性を形成することにおいて、システム自体の新たな使用というシステム自体の維持に貢献していると考えられるであろう。
以上の考察から、今も昔も人々は積極的にも消極的にも公共圏というものを形成しそして社会システムにインパクトを与え続けているということがいえるのではないだろうか。
参考文献
東浩紀『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』講談社現代新書, 2001.
稲葉振一郎『「公共性」論』NTT出版, 2008.
大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書, 2008.
北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』NHKブックス, 2005.
宮台真司『まぼろしの郊外――成熟社会を生きる若者たちの行方』朝日新聞, 1997.
質疑応答
Q.議論の空間性を考えた時に国民国家というものを前提にシステム対人々という図式を構成しているのではないだろうか。それはシステム内部の企業や家庭、人々内部の多様な動きを還元する役割を持っているのではないだろうか?
Q.システム自体が日本の高度経済システムということが前提になっているように感じられるが、企業のダイナミクスを見た時に安定期、成長期、停滞期という理解とは別に一貫して成長を続けているのではないだろうか。そしてその成長の論理自体も一貫してシステムというもので括られるわけではなく、その内部の論理自体もダイナミックに変化しているのではないだろうか? そう考えるならば、システムへの人々の積極的・消極的関与とされる、内容、アクター自体も再考されるはずではないだろうか?
Q.様々な疑問があるが、第一に公共圏の範囲はどこまでと想定できるのか、それは全体が公共圏なのか、いくつか部分が公共圏なのか、それとも多様ないくつかの部分が公共圏なのか?
A. The Public Sphereという考え方、the Publicという考え、そしてPublic Spheresという考え自体がそれぞれの公共圏の範囲の議論に対応していると考えられる。今回はそれぞれ三つの要素を組み合わせた感じでプレゼンをした。
Q.公共圏のあり方としてシステムへの関与を意味した場合、それは主体やコミュニケーションのあり方によっても変わってくるのではないか?
A. 確かに主体やコミュニケーションなどの関わりのあり方によってそれは違ってくるかもしれないが、その一方でそのような関わりのあり方自体を確実に区別することも困難であろう。
Q. やはり何をみたいために公共圏の議論をみるのかを明確にする必要があるのではないか?
議論
今まで考えてきた公共圏の議論をどのように活かして、発展させていけるだろうか?
1. 公共圏義議論の重要性はどこにあるのか?:1.社会を解釈する場でありうる、自分を見つめなおす場でもありうる、そして他者と交わるまでもありうる点、2.社会の中で変化を根源的な起こす場である点 3.自分が生きている場を自分で改めて理解することができる場である点 4.近代の文脈で自分がどう生きるのかを考えられる場、そしてそれを通して他者と社会をどう作っていけるのかを解釈を考える場、その結果として社会のあり方を変化させる場→公共圏の重要さ:自己解釈の場、他者解釈の場、社会解釈の場、そしてそれを通じて社会を変化させる可能性のある場 (問題意識)
2. 自己解釈の場、他者解釈の場、社会解釈の場(そこにおける社会変化は)どこで見ることができるのか?→知識生産の場(すべての要素は知識を生み出すことに関係しておりそのことを通して社会変化を導くという点から) (Topic)
3. ではそのような自己解釈、他者解釈、社会解釈を行う場として理解される知識、「公共圏」(公共性)がどのように、知識生産として作られ、使われているのか? →これを通して現在における、自己解釈、他者解釈、社会解釈の意味を明確にする (事例)
次回の課題:日本の文脈で公共圏・公共性という議論は、いつから語られ、誰に語られ、どのように使われているのか?
2008年度第6回政治社会勉強会 part 1
11月 3rd, 20082008年度第6回勉強会 part 1
2008年度11月1日(土曜日)
日本における市民的公共圏の議論:発表者 中野瑞紀
日本における公共圏がどのように議論されているのかを知るために、長崎励朗「現代日本と幻影の公共圏」『京都大学生涯教育学・図書館情報学研究』2008年3月、増田和也ほか「現代の公共圏とコミュニケーションをめぐる-考察-「菜の花プロジェクトを例に-」『同志社政策科学研究』2007年8月、江口厚仁ほか「【シンポジウム】市民的公共性/公共圏のゆくえ」『九州大学法政研究』2007年12月をもとに議論をまとめてみた。
長崎他は現在の「市民的公共圏」というものが有効性を失っていることを、「理性的討議」の不可能性、「開放性」「公益性」「平等性」という二つの公共圏の条件が成立していないことを論拠に議論している。前者の理性的な討議が現実に実行された場合、時間的な制約のもとにおける合意の困難、意見の言い合いに終ってしまう危険性が絶えず潜んでいる。後者の公共圏の三つの条件に際しても、開放性に対して、自発的に参加しない人々の存在や、公益性・平等性に対しても格差や根源的な平等性の確立は困難であると議論される。長崎は以上のような結論から、コミュニケーションの増加よりもコミュニケーションを行うことはどんなことであるのかという問いこそが問われるべきであると結論づけていた。
増田他は、ハーバマスの議論に基づき、公共圏の前提を対象性、公開性、柔軟性と定義し、多様なアクターによるコミュニケーションに基づく社会の構造転換こそが公共圏の役割であるとしている。その上で彼らが主張する「菜の花プロジェクト」は公共圏の可能性があるということを議論していた。
江口他の【シンポジウム】では、公共圏の議論が前提にしていた、公的領域、私的領域の区別、公私の区別の難しさを論拠に現在の市民的公共性、そして公共圏を語ることの難しさについて議論していた。その上で、そのような公共圏の困難を乗り越えるために、他者とのコミュニケーションのあり方そして、他者へのコミットメントのあり方を改めて問われなければならないということが主張されていたのだ。
質疑応答
Q.どの論文も問題意識がなにのではないか?これらの議論は公共圏のための公共圏を議論しているのではないだろうか?
A.確かに自分達のみたいもの、言いたいものを言うために公共圏が使われているではないだろうか?
Q. 稲葉の議論を読んでいても思ったことだが、どの視点から公共圏を考えるのかということが重要ではないだろうか?公共圏を俯瞰してみる方法と、公共圏を使って議論を組み立てることはまた別種のことであろう。
2008年度第5回政治社会勉強会
11月 2nd, 20082008年度第5回政治社会勉強会
2008年10月4日(土曜日)
「「公共性」論」 稲葉振一郎を読んで:発表者 尾股和華
稲葉にとって公共性とは、社会システムと生活システムとの間に緊張関係が成立していることを議論していた。稲葉はこの観点からハーバマスを読んでいく。稲葉によれば、ハーバマスは、大衆社会の公共性の理念やリアリティの損失を問題化したとされる。その上で、近代とは、このような、公共性やリアリティへの違和感が存在したと議論している。このような状況に対して、稲葉は、後期近代はそのような違和感自体も欠如していく「動物化」の状況が存在したのではないのかと議論している。アレントもまた、「人間性」を問題化していると指摘され、そのようなものが流動的になり、人間が人間になれないということを問題化したと稲葉は指摘する。稲葉はアガンベンも取り上げて、彼のホモ・サケルの議論の現代的な意義として「幸せなホモ・サケル」が登場したということを指摘する。以上の議論を踏まえた上で、稲葉は人々の「動物化」している状況はそのような社会の管理状況にとっても不都合である(システム維持のために)ために問題ではないかと結論付けるのだ。
以上の稲葉の議論をふまえた上で、第一に社会システムを維持するための統治者は誰かという問題があるであろう。それは私人なのか、市民なのか、エリート的な人を想像しるようだが誰か?さらには、統治するものと統治されるものを分離すること自体に問題はあるのではないだろうか。稲葉によれば、統治者の選択肢自体は、統治される側と共有されておるとされ、両者の間には、循環があるように議論されるが、そのような対象性が成立しない場合もあるのではないか。特に、リスクの伴う意思決定を行う場合、そしてリスクが顕在化してしまった場合の責任問題をどのように考えるのか。そのような責任問題を共有できる「公共」というものも必要になってくるのではないだろうか?
質疑応答
Q.統治する側は統治をして、自治をする側は自治をすればよいという議論を稲葉は行うが、その違いは何か?統治するもの、と統治されるものという分断の中に自治のスペースはどのようにして入ってくるのか?
A. 原子力発電所の例をとれば、原発を作る側はインフラを作り、設計するという設定で、一般の人はその上で生きれば良いという前提として話すだろう。両者の間に情報の共有があるであろうが、インフラを作るという目的のために原発を作らないということを考えさせられるような土台をあるのか?
Q. 統治する側は重要なのではないか?それは所与のものではないか?では誰が統治しており、どんな統治のあり方がよいのかということを考えてみることは必要ではないか?
A. 確かに統治する者がいること自体は、確かに重要だろう。稲葉の論に戻るならば、統治されている側が、統治の関係にいることで、知りえない問題が出てくるだろう。それは何か問題が起こったときに初めて顕在化してわかるという状況になるだろう。そのような問題を知りえないまま問題が進んでいくこと自体が問題ではないかということを感じる。
Q. 二つの問題があるのではないか?一つは、常にあるリスクをどう考えるのかという問題がある。リスクはどこにでもあり、知りえないものであるだろう。もう一つは、リスクが顕在化した時にどう向き合うのかという問題ではないか。もしくは、リスクがあるのに顕在化しないという問題があるのではないだろうか。
Q. 稲葉の統治は二つの意味合いがあるのではないか?:一つは前者の環境管理型権力を用意するもの統治であり、後者は、そのようなそのような環境管理型権力にも人々が関わっていくことができるではないか。後者の意味での公共性という意味合いもあるのではないか。
Q. 環境管理型権力の意味合いも難しいのではないか。環境管理型権力が全体化している中で、その中で、私たちがどう行動できるのかということ自体も問題化することができるのではないだろうか。
Q. 稲葉の「動物化」の議論が、公共性の議論に対しての貢献とは何か?
A. 彼の貢献として考えられうるのは、ハーバマス的な方向に戻っていくのだが、いくつもの考え方があるのだが、意識を持っている人が関わっていくことが大事ではないのか。
Q. 稲葉の人々が参加する意味での統治の公共圏のもっている力というものを軽視しているのではないか?その社会にとって持っている意味でのパワーを考える必要もあるのではないか。